今日は
浴衣会でした。
以前にも書いたとおりお二人が初舞台。
まず4歳の女の子。
いつもニコニコしてる子なのですが、さすがに今日は緊張気味。
でも舞台はいつもどおりにとってもよくできました!!
子供ってホントに舞台をさらってっちゃうんですよね~。
見所もほんわかムードになりました。
次に僕のお弟子さん。
お稽古始めて10ヶ月ほど、満を持しての初舞台でした。
とはいえやっぱり緊張します。
…って僕が。
思えば3年前、僕が定例の能での初シテのとき、師匠が朝からものすごくそわそわされてたのを思い出します。
で、結果…。
こちらも非常によくできていました!!
他の地謡の方から「え、初舞台だったの?」と言われるくらいとっても落ち着いて舞ってらっしゃいました。
娘さんお二人が見えてましたが、安心してご覧なられたことでしょう。
次は12月の発表会に向けてまた新たなスタートです。
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- 2005/07/30(土) 23:27:34|
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自転車が盗まれた~!!まー鍵は壊れてたし、マンションの入り口においてあったし盗られても不思議じゃあない。
5年前ドンキで8000円(安モノ)で買ったんだけど、もう後輪のスポークは折れてるし、こぐたびにかなりのキィキィ音を立てるので買い換えようかなぁとは思っていたものの、急になくなると不便…。
思えば相当乗り込んだよなぁ。
うちから荻窪までなんてのもだいぶやったし。
普通のママチャリなのに。
乗り捨てられてないか駅前も調べたものの見つからず。
う~ん。。。
昼間ネットニュース見てたら、昨日の深夜ある俳優さんが自転車ドロで捕まったそうで。
警視庁世田谷署管内。
…って、
近っ!職質されるってことは何らかの不審事由があるからだけど、鍵がイカレてるととめられることが非常に多い。
現に僕は三回職質されている。
ひょっとして僕んじゃないだろーなー。
防犯登録は義務になっている(たぶん)から、持ち主の連絡先やらは警察でわかるはず。
その盗まれた自転車の持ち主に連絡はいくのかなぁ??
- 2005/07/28(木) 21:51:54|
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昨日は徳島で公演がありました。
小松島の競輪場での催しで、去年に引き続き2回目です。
今年は競輪場のバンクの中に舞台を作って薪能形式でやる予定(たぶん史上初の試み)だったのですが、台風の接近により残念ながら屋内での開催に。
去年と同じ、車券場で行いました(下は舞台設営中の写真)。

演目は
「羽衣 替ノ型」。
僕は解説を担当させていただくことになりました。
去年は装束を着付ける時間を稼ぐため20分いただいたのですが、今回は10分。
解説にはちょっと短いかなぁと思っていましたが、案の定…。
囃子方の皆さんに「10分経ったら
お調べ(開演前に行う最終音出しテストみたいなもの。といっても開演ベル的な意味も兼ねているので適当にやっているわけじゃないんです)始めて下さいね」とお願いしていたところ、替ノ型の説明の途中で始まっちゃいました。
最後は駆け足になってしまい、残念。
でも終演後の打ち上げで「今年の解説はさっぱりしててよかったですね!」と。
…そっかぁ、お客様は能を観にいらしてんだもんなぁ~。
べらべらしゃべればいいってもんじゃない。
今後のいい教訓になるお言葉でした。
さて、能のほうはといいますと、、、
申し合わせもなくぶっつけ本番の初めての舞台でありながら、特設舞台慣れしている先輩なので全く問題なく舞っていらっしゃいました。
若手中心のメンバーでしたが、それぞれの力をぶつけあった舞台になったという感触はありました。
初めてご覧なる方が半数以上でしたが、お客様はどう感じられたのでしょうか??
- 2005/07/26(火) 20:47:49|
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さて質問です。
自分の祖父母の兄弟は大伯父(叔父)、大(伯母)叔母。
その孫同士ははとこ、あるいはまたいとこ。
では、自分とはとこの親との関係はなんと言うのでしょう?
(自分といとこの子供との関係と言っても同じ)
う~ん、辞書調べてもわかんない。
そもそもそういう言葉が存在するのだろうか?
なんでこんなことを考えたかというと、父の従弟であるはとこのお父さま(以降はとこパパ)主催の焼肉パーティーに行ってきたから。
はとこパパはアウトドア派でよくバーベキューやらをするらしい。
家族パーティーにお呼ばれしたのだと思い、父と一緒に行ったのだけど、着いてみると軽い法事状態。
そう、誰が誰だかよくわからないけどとりあえずご挨拶、で
「まぁー大きくなったわねぇ」になるあれです。
でもしばらく皆さんの会話を聞いていると、どうも多くの方は(といっても5人だけど)親族ではないことがわかってきた。
お一人はとこのお母様のお母様。
そんな言葉があるかどうかわからないけど、外大叔母という関係。
他の方は、ご近所のご夫婦、大叔母の知人、はとこパパの友達という面々。
最初はなんだかよくわからない状況に少し戸惑ったけど、すぐに打ち解け楽しい時間を過ごした。
だいたいこういう場になると、お仕事は?という話になる。
すると、非常に興味を持って下さった方がいて今度観に来て下さることになった。
おいしい食事と楽しい時間に
大きなお土産がついた♪15時から始めて気がついたら21時。
本当にはとこパパ、はとこママ、はとこクン、すっかり長いさせていただきました。
本当にご馳走様、有り難うございました!
さて、
話はちょっと前後するが、行き帰り父と一緒に歩いた。
徒歩で約20分ほどの道のり。
僕はゆっくりめに歩いていたが、父は大汗をかいていた。
20年ほど前。
僕の小学校の入学式。
前日に妹が生まれたため、式には父と一緒にいった。
6歳の僕にとって父の歩くスピードは猛烈に速く、はしゃいでいたのもあったが駆け足で行ったのをよく覚えている。
そして今。
僕は27になり、父は還暦を超えた。
「お前歩くの早いな」なんて言葉を聞くと、大人になったんだなと思う気持ちの一方で、なんとなく淋しいような気持ちに襲われる。
10年くらい前に一緒に歩いたときはそんなことはなかった。
ん?
この10年、二人で歩くことすらなかったのか。
親孝行、してないな…。
- 2005/07/24(日) 23:39:54|
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さて
「舟弁慶」。
この曲は前シテは静御前で、静かにクセと中ノ舞を舞います。
後シテは平知盛で、一転長刀を使っての激しい舞になります。
これが利きましたねー。
前シテはスローな動きですが、これが見た目よりはるかにきつい。
能の構えは、膝を落とし腰を据えるのですが、かなり足にきます。
後シテは見た目どおり激しい動きになります。
子方も僕が稽古していたので、謡いながら舞うため相当な有酸素運動。
さらに公演が4月末だったため、だんだん暖かくなり稽古するごとに大量に汗をかくようになりました。
これで
72キロ。
その翌月、建長寺で清経のツレ。
この日は猛烈に暑く、5月だというのに32度くらいでした。
更に御堂を締めっきりで公演。
その上、普通の環境で着ても十分に暑い面装束を着て1時間。
舞台が終わった後は意識が朦朧としていました。
家に帰ってみると、わずかに
70キロを割っていました。
この数字はたぶん高校1年以来でした。
それ以降も少し減って
67、8キロで安定するようになりました。
この数字がもう1年続いていて、どれだけ暴食しても70キロを超えることなく、無理せずまたもとの体重に戻るようになっています。
能は正座をするのが仕事のようなものですが、重くなるとテキメンにしびれが早く来ます。
でも反面、少しお腹が出ているほうが着物や装束は似合うのです。
最近師匠からも「ちょっと装束が似合わなくなってきたなぁ~」と言われてしまいました。
175センチ・68キロというのは世間一般では標準的な体型なんでしょうが、能楽師的にはもうちょっとあってもいいのかもしれません。
…とまぁ長々と書き連ねましたが、能は健康的にはいいと思います。
思いっきり声を出したり、舞を舞うだけでそれなりにカロリーを消費します。
気分的にもすっきりしますしね!
それと、これは先輩のお弟子さんがおっしゃっていたのですが、能を始めて1年位すると体のラインがすっきりしてきたとのこと。
はっきりした根拠はわかりませんが、腹式呼吸による腹筋強化+代謝の促進、構え・運びの稽古を行うことによる下半身の強化、によるものだと思います。
それと日常生活でも姿勢を良くしようという気持ちになっていくというのも挙げられると思います。
そんなわけで、僕は能を通して実際に14キロダイエットしました。
「それは仕事としてやってるから」という部分も確かにありますが、上に挙げたお弟子さんの例もあるので、もしダイエットを考えていらっしゃる方、気長に能をやってみるというのはいかがでしょう?
- 2005/07/22(金) 20:08:42|
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ちょっと前の僕を知っている人が僕を見ると、だいたい「やせたね~」と言う。
自分でもやせたと思います。
さすがに
14キロ減ると。
最盛期はプロに入ってからまもなくで、82キロまでいきました。
そりゃそーです。
楽屋弁当平均3個、2日連続の舞台で
合計10個平らげたときもありましたから。
単に若くてまだ食べ盛りだった(?)のもありますが、まだ楽屋に入り始めたばっかりで、何とか名前を覚えてもらおうとか、愛嬌のあるキャラクターとして定着させたかったといった潜在的な願望があったのかもしれません。
ところがその頃
「この花」という曲の臣下の役をいただきました。
これが大変な役なのです。
この曲、豊臣秀吉が作らせたといういわゆる“豊公能”の一つで、最近発見され復曲・上演となったのでした。
観世流でも上演されていますが、金春流は秀吉をツレとし、付き従う臣下もシテ方でやるという演出にしました。
さてこの臣下、もともとワキツレの設定らしく、ほっとんど座りっぱなしです。
ワキツレの辛さがわかりました…。
それも大口姿に小サ刀を差すという非常に体にキツイ出で立ち。
更に初演のときは非常にシッカリしていて、1時間40分以上かかったと思います。
一応これに向けてダイエットを始めたのですが、まだその当時は80キロを切るか切らないかだったので、それはそれは大変な思いをしました…。
さて14キロやせたダイエットの方法について。
①楽屋弁当の数を減らす
1個、多くても2個にしました。ま、当然ですわな。
先輩方から「おーい、弁当余ってるよ!」と声を掛けていただいても「またこの花がありますから」
とか「今度清経のツレがあるんで」とか言って凌ぎました。
ただ国立能楽堂・楽屋食堂のマスターは僕の顔を見ると、漫画のようにごはんを盛ってくれて
嬉しくはありながら、ちと…。ちなみにいまでもそのサービスは変わりません(笑)
②家での茶碗を小さくした
たくさん盛っても少量。気持ち的な満腹感を味わえます。
③なるべく早い時間帯に夕ごはんにしてもらう
遅くなるときは比較的ローカロリーそうなもので外で済ませてました。
④夕食後のおやつ等をなるだけ控える。
“なるべく”がミソです。“絶対”にするとたぶんくじけるので。
⑤風呂に入る前に軽く筋トレ
腹筋・背筋など。10分程度。
筋肉つけて基礎代謝量が増えればやせるかな~と。
ただし、胸筋は標準以上あって装束が似合わなくなるギリギリの線だったので、
腕立て伏せはやめました。
⑥風呂上りにストレッチ
毛細血管に血がいきわたればその分カロリー消費量が上がるかな~と。
⑦気が向いたときにジョギング、プール
ジョギングはクールダウン含めて50分くらい。
プールは1回行くと、のーんびり2キロくらい。
と、こんなところでしょうか。
ご覧のとおり、ぜーんぜん無理はしていません。
で、2年くらいかけて
82→75くらいまで減らしました。
そんなおり
「舟弁慶」のシテの役があり、その稽古が始まりました。
…疲れたので続きはまた明日。
- 2005/07/21(木) 22:58:48|
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今日は一月半ぶりのお休みでちょっとだけのんびり。
他の方のブログを拝見していて、ふと自分なりの考察をまとめてみようと思い立ったので、
「能における型の意味」について以下ちょっと書いてみる。
能の型を大雑把に3つに分類してみた。
①写実的な型
②抽象的な型で、約束事としてある程度意味が決まっているもの
③抽象的な型で意味が特にないもの
まず①の例を挙げると
シオリ。額の前に伸ばした指を持っていき泣いている様子を表す動作。普通左手だけで行うが、とーっても悲しいときは
諸手ジオリといって両手でするときもある。
②の例としては
ユウケンという型。男性と女性の役とで動き方が異なるが扇などをを持っている右手上に上げて下ろすという動きを2度繰り返す。定義的な意味としては“喜び”をあらわすと言われ、確かに「田村」のキリで敵を平らげあっぱれ!という場面であったり、「葵上」の生霊が成仏(生霊なのに成仏という表現は正しいのかどうかは別にして)するときにもたしかこの型があったはず。これらは確かに喜んでいる有様なのだが、たとえば「羽衣」などクセに入る前、サシの最後にするユウケンはどうもその定義からしっくりこないような気がする。なので分類は“ある程度”という表現にしてみた。
次に③は…、ほとんどの型がこれになる。
サシヒラキ(流儀によってはサシコミヒラキとかいうらしい)や
小廻リ、
左右仕止メなど。よく観にきてくれた友人から質問の対象になるのがこれなのだが、訊かれれば「特に意味はないよ」と答える。演者としても型としてやっている以上の意味はたぶんない。ただ、ときとして意味を込めたくなるときがあるが、こういった曲中何度も出てくる基本的な動作にひとつひとつ意味を込めていたら、むしろ能としてはとても見られたものではなくなると確信を込めて思う。意味を込めるより、連続してこの型がある場合などは、単調にならないようにどう変化をつけるべきかとかそういう方向の思考になる。
さて、この文章を書くきっかけとなった
足拍子の意味について。足拍子とは足を上げて舞台の床を打つ動作、その音のこと。この分類では③に入ると思う。基本的にはクセに多くある始まってすぐの足拍子や、上羽直後の足拍子が典型で、これらにメッセージ的な意味があるとはどう首をひねっても考えられない。単に一連の舞の中での型でしかない。舞う側としては、足をどの程度、どういうタイミングで上げるか、強さや音をどの程度にするか、それによって流れがどう向くか、とやはりそういう方向にいく。
しかし足拍子はちょっと①②的なものもある。「熊坂」を例にとると、“熊坂思うよう”の箇所で一回足拍子がある。これは怖気づいた自分がはっと我に返ったという点を強調するといった意味合いか。また“熊坂も長刀構え、互いにかかるを待ちけるが”の箇所は、間合いをジリジリと詰めていく緊迫感みたいなものをあらわしているのではないかと思う。もっとも熊坂は何度か舞っているが、足拍子についての考えを言葉にしてみたのはこれがはじめてなのだけれど。
そのほか「加茂」の“ほろほろ、とどろとどろ”は雷の音を表した擬音表現だと思われるし、「巴」の“手綱にすがって鞭を打てども”なんてのはほぼ①に近い表現と言える。
さて「能における型の意味」とは、
ときによりけり、まちまち。うわー、ひどい無責任な結論(笑)
だって、この議題に対する結論としてはこうとしかいえないもの。
いやむしろこういう結論でないと能が能である意味がないような気すらする。能の“演技”というものは、いかにお客様に想像の余地のある状態で発信できるかということなのだから。
あ、大事なことを1つ忘れてた!
③に入るものの具体例。
じっと立っている型。じっと座っている型。ただちょっと付け加えると、能を観る上では②については予め知識があったほうが楽しめるかも。少なくともわかったという感覚は得られるはず。他の例としては
修羅ノ型なんてのもある(説明すると長くなるので割愛)。
先ほどの「熊坂」の足拍子を例に取れば、場面場面それなりに意味を見出せるし、それを考えるのも面白いと思うんだけど、それよりもなんていうのか、曲全体として雰囲気を作り上げる上で、それがどういう効果を出したかという見方というのも面白いんではないかなと思う。
ちょっとわき道にそれるけど、書いてるうちにふとある考えが浮かんできた。現代人になぜ能がメジャーになっていかないかということについて。どうもよくわからないものに価値を見出そうとしない観念というものがあると思う。そういいながら僕にもそういう部分は多分にあるだけど(このへんが以前書いた“日本人の宗教は合理性”つながってくるのだが)。いいじゃんね~、わかんなくったてなんだかいいなって思えたって。自分の理解不能なことを理解できるようにしようってのは、すごーくエネルギー使うし時間かかるからそういう意味でも、時間にゆとりのない現代人はなかなか能を観ようって気にならないのかなぁ。もちろんそれを放置してることや、有無を言わさない魅力的な舞台を作っていないとしたらそうしていない能楽師の責任は重大なんだけどさ。
- 2005/07/18(月) 14:30:54|
- 考えごと(能楽)|
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懸案の
「是界」無事(?)終了しました。
申し合わせで課題となっていた、軽く力まずに謡うということに関してはまずまずうまくいったかなと思います。
しかし、そのほかの点でちょっと課題も。
①アシライの仕方
“アシライ”とはいろんな意味がありますが、ここでは相手(シテ)の方を向く(そして元に直す)という動作のことです。普通下に居る(座る)ときは立膝の姿勢にすることが多いのですが、「是界」の場合は安座といってあぐらをかくような格好になります。このときは右膝を少し浮かせて足首を使いながら動くのですが、どうもこの動作がギクシャクというか粗いというかそういう風に見える動きになってしまったかもしれません。
②ロンギの謡
能の中には
“ロンギ”と呼ばれる部分が多くの場合あります。ロンギとはすなわち論議でシテと地謡、ないしはシテとツレ等他の役と拍子にあった謡で掛け合いをする箇所です。「是界」の場合、最初がシテとツレでその後シテと地謡になります。クセのあと、大小が打切という「ハ・ホンヨー・ホーホー」という掛け声とともに手を打ち、その後ツレの謡となります。このツレの謡がちょっと弱かったかもしれません。クセの内容と大小の打切の気合を考えるともう少し、「さぁ、行こうか!」的な気合が感じられる謡であるべきだったのでしょう。力まずできたのは収穫でしたが、もうちょっと臨機応変にいってもよかったかなと思えます。それと一箇所引き(伸ばす節)が短すぎました。舞台上でもしまったとは思ったのですが、MDを聴いてみると、明らかに大鼓の意図するところと食い違ったように聴こえます。
昨日の大鼓の方は、普段国立の研究でお稽古していただいている先生のご長男でした。お稽古のとき、打切の掛け声だけで20回ほど繰り返しご指導いただいたことがありました。先生曰く「打切の掛け声一つで次の謡いを作る」と。また「コイ合は一番難しい。謡を考えて掛け声の長さ・上げ方を変えなくてはいけない」とも。そういう点を考えるとこのロンギの謡は舞台の中で謡ったというよりも、一人で謡ってしまったという悔いが残ります。
でも、そういう風に舞台を捉えられるようになったのは成長したということなのかもしれない、と思える部分もあります。今までならまず謡を間違えない、動きを間違えない、ばかりで舞台全体としてというところまで気持ちがいき届いていなかったもの。そうポジティブに!きっと今一つ一つ階段をのぼってるところなんだ。カンペキなどはありえないこの世界。まして27歳の若造においておや!
お稽古や舞台で教わった恩を返すには、よりよい舞台を勤められる役者になるという以外にありません。また今日から次へ向けての戦いが始まります。
- 2005/07/18(月) 11:56:59|
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ついに明日は
「是界」。
今日は最後の地合わせ。
気になっていたアシライや立ち上がるタイミングもよく合わせておきました。
力んでしまっていた謡も、申し合わせより軽く謡うことができたかな、という手ごたえをもてました。
もっとも、舞台に出てしまえばどうしても気合が入って力んでしまうとは思うのですが…。
でも何はともあれやれることはすべてやったという気持ちです。
たかだかプロ5年目の僕がこんなこというのもなんですが、
“僕が一番上手い!”という想いを持って舞台に臨みます。
なんだこの若造偉そうに!と思われるかもしれませんが、お客様から見れば舞台に立つものはみんなただプロとしか映りません。
もちろん僕がプロ5年目の駆け出しだとかそんなことも一切関係ありません。
持てるすべての力を出し切って「是界」という舞台の歯車になりたい。
そのためには卑屈な思いを抱いて不安にかられるより、絶対の自信を持って挑みたい。
そうでなければこの暑い中、お金を払って来てくださるお客様に申し訳ない。
舞台に携わるすべての人々の想いがぶつかりあう、そういう緊張感があってこそ能はお客様に訴える力が生まれるのだと思っています。
あ!そうそう、目いっぱい頑張っても、自分を見つめられる心のゆとりをもって頑張るってことを忘れないようにしないと(笑)
- 2005/07/16(土) 23:22:03|
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午前中は師匠のお稽古。
問題の
「是界」を見ていただきました。
やはり、力みすぎの箇所が多々。
幕切りから一つ一つチェックしていただきました。
どうも申し合わせのときは声が出てないような気がして、がなるようになっていました。
師匠がおっしゃるには、十分声は出ているとのことなので、もっと軽く謡うようにしてみると、あら!
気持ちの上でも、今まではツレと言えども天狗の仮の姿だからという思いが先走ってしまったのだと思います。
ほんと、今日見ていただいてよかったです。
師匠は教え上手かつある種おだて上手(笑)なので、だいぶ自信が持てました。
土曜日にもう一度地合わせで通せる機会があるので、ここでしっかり最終調整をして、“頑張り過ぎないように頑張る、かつ丁寧に”と心がけて舞台に臨みたいと思います。
今日はその後が結構忙しく、稽古後事務所で一仕事。
3時間ほどして国立の稽古へ。
時間の都合で大鼓だけの予定が、小鼓の先生も早くいらっしゃるということなので折角だからと見ていただきました。
急だったもんで危うかったですが、ちょっとオマケ気味に何とか合格。
急いで大鼓へ。
無理を言って順番を早めていただき(助かりました、有り難うございました!)、こちらはまぁなんとか。
この時点で16時25分。
ダッシュで千駄ヶ谷の駅に行き(よく考えれば代々木に行ったほうが良かったが結果オーライ)、総武線に飛び乗り大塚へ。
稽古場到着は16時55分、セーフ。
ちょっと一休みしてから師匠(女性のほうの師匠)の代稽古。
4名お稽古して19時半頃でおしまい。
ふぅ~。
- 2005/07/15(金) 00:04:49|
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今日は事務所からまっすぐ帰宅。
ちゃちゃっと夕食を作る。
最初は暴力的に狭いキッチンに悪戦苦闘してたけど、最近はまあまあ手際よく作れるようになった。
IHヒーターが1口しかないのは非常にもどかしいけど、今日のは20分程度で出来上がった。
ホイコーロー(っぽいもの)、豆とコーンのサラダ、とき卵ワンタン(の皮だけ)スープとごはん。

ホイコーローはちょっと肉の割合が多すぎたかも。
でもなかなか美味かった。
…ちょっと食べ過ぎた。
洗い物してちょこちょこやることやってから、ふと思い立つ。
ジョギングに行こう!!
大学生あたりから、毎年夏になるとなんとなく衝動にかられる。
僕は喘息持ちなので小さい頃から走るとすぐ発作が起きてしまっていたが、成長するにつれだんだん出なくなってきた。
でもちょっと寒いときに、急に運動するとまだ少し体調を崩すので夏場に限るようにしている。
最初は運動不足解消程度でなーんとなく走り始めたが、ひとっ走りした後の爽快感がなんともいえず、習慣化してきてしまった。
ただ仕事を始めてからは、翌日長時間の正座を強いられるときはやめるようにしている。
一度体験したが、普段より相当痺れやすくなってしまうからだ。
なーんてことを考慮すると、今期初ということと日曜日の舞台から計算して、今日あたり一発走ってみるかと思い立ったのだ。
早速アミノバイタルを一袋飲む(気休め)。
まず母校である中学校の周りを二周り(一周450メートル)。
それからいつものコースに入る。
が、食べ過ぎた夕食がここにきて響いてきた。
1.5キロ過ぎで急にお腹が張ってきた。
ちょっと歩いて、また走り出すと今度は右ひざに。
体重も軽くなったし、普段駅の階段は一段抜かしで駆け上がるようにしてるし、もうちょっと走れるかなぁと思ったのに無念。
まー、舞台があるし無理はしないでおこう、ということにしておいた。
そんなこんなで27歳の初日を終えた。
- 2005/07/13(水) 23:55:29|
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今日は週末の
座・SQUARE公演の申し合わせ。
まず、師匠の
「半蔀-立花」。
序ノ舞の中盤まで拝見させていただきましたが、師匠だからということなしにホントにいい舞台でした。
気合を入れていざ
「是界」のツレに。
大惨敗でした…。
どうにも謡が重いし、強すぎる。
おまけに立ち上がるタイミングがシテと思惑が合わない。
それに気を取られて謡を間違える。
…流れが悪すぎる。
帰ってからもどうにもむしゃくしゃするので、普段家ではまず飲まないビールを一缶開けました。
録音を聴くと自分が思っていたほどはひどくなかったので、少しは救われた気分になりましたが…。
うん、めげてちゃダメだ!
まだ今週師匠に見ていただく機会もあるので、とにかく気を取り直してがんばろっと。
- 2005/07/12(火) 23:09:30|
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水曜日以降、研究会、稽古、稽古、宅稽古、出稽古となんだか今週は忙しかった…。
10時過ぎに帰ってきて2時過ぎまで予習の日々。
枯れた声が治らないぃ。
今晩はちょっとだけ一息。
もっとも昨日は稽古のあと飲みに行っちゃたりしたんだけど。
ご一緒したのは歳の近い囃子方の方で、話題はほっとんど能のことで4時間くらいいろいろとしゃべった。
基本的にお互い能が好きな一方、危機感を持っているということで一致していたと思う。
話は変わるが…、
僕は常々思っているのだけど、日本は無宗教だとか、葬式仏教だとかいわれているけど、しっかりした宗教をもっているのではないか。
科学という名の宗教を。
いや、科学というと語弊があるかもしれないな、もう少しはっきりいうと
合理性というべきか。
その人が考えられる範囲で、合理性があるものこそが正しく、ないと思われるものは価値がないという考え方。
もちろんそういう考え方がないと前進できないことは重々わかっているし、自分自身もその宗教の信奉者であることは間違いない。
でも、合理・非合理を超えた絶対的なものというのは絶対に必要なのだ。
その絶対こそがいわゆる宗教なのではないか。
でも今の日本はどうもその絶対的なものが、絶対的にはなりえない“合理性”というものになってしまうという状態にある気がするのだ。
最近、15歳ほどの子供が殺人、あるいは殺人未遂を起こすという事件が続いている。
また小学校では授業崩壊などということがあるという。
そうしたこともこの現代日本の宗教と関連性があるのではないか。
すなわち、子供が早すぎる時点で合理性に傾きすぎて、自分で考えて達した結論が絶対であると思い込んでしまうということだ。
先日、弟が兄を鋸で殺してしまうという事件があった。
取調べに対しても冷静で、兄に対する謝罪の言葉はないとか報道されていた。
僕の想像だが、この弟はそれなりに物事を考えることが出来たんだろうと思う。
考える中で、兄への恨みの感情が、この兄を放っておくことはひいては世の中に迷惑をかけてしまうのではないか、というような彼なりの正義感で正当化されていったのではないか。
もし衝動的にやったというのならそんな冷静に取り調べをうけられるわけがない。
最近の子供はキレやすい、などといわれて久しい。
確かに食生活が雑になって栄養面からキレ易い体になっていることもあるだろう。
しかし、根本的な部分は、社会全体にひろがっているこの考え方が、モロに子供たちに反映されてしまっているからだと思う。
「おとなしい子で、勉強も良くできて、とてもそんな犯罪をするとは思えない子でした」なんて近所のひとの証言をよく聞く。
あたりまえだ。
物事を考える能力があるからこそそういう事件を起こすのだ。
ただ彼らの考えられる範囲、つまり合理性の程度が低いためそういう結果に至るのだ。
そういう意味では彼らは合理性という名の宗教に従って行動した確信犯(本来の意味での)なのだ。
かつて日本では家父長制なんてものがあった。
一家の主は一番偉い、という考え方。
いまは人間はみな平等だという。
“人間はみな平等”、確かにすばらしいことだ。
でも、それがオールマイティなのか?
たとえば僕の小学校のときを思い出してみると、その当時小学校の先生というのは絶対的な存在だった。
先生に言いつけるというのは切り札的な文句だった。
別に僕の担任に当たった先生はスパルタ教師ということはなかったけど、説教されたりすることはもちろん、廊下で給食を食べさせられることもあったし、襟首をつかまれて怒鳴られたこともあった。
有無をいわさず従わせる絶対的な権力が先生にはあった。
それが、今はどうか?
先生だって人間、そう“人間みな平等”。
そんないわゆる悪平等がいかんのだ。
ある年齢まで有無を言わさない絶対ってものが必要なのだ。
そしてその絶対が何で絶対たりうるのかと考えることが大事なんじゃないのか。
こういう育ち方をしてる子は、圧迫される時期がないから反抗期もない。
そしてある程度の絶対(それがたとえ理屈が通っていなくとも)というのは、(子供のときのみに限らないな)今いる合理性のステージから止揚させる、簡単にいえば人間を育てる大事な要素なのではないか。
…で、これから本題の能に話がいくのだが、もう疲れたのでまた今度にしよ。
- 2005/07/09(土) 23:38:21|
- 考えごと(いろいろ)|
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ここのところ文章は書いてみるものの、なんとなくまとまらなかったのでちょっとご無沙汰してしまいました。
今日は国立で
小鼓の稽古。
「紅葉狩」と
「舟弁慶」を謡いました。
でも、細かいミスが。
こういう基本的な曲間違えちゃダメだろ、自分…、とちょっとヘコみ気味。
その後
「天鼓」と
「鉄輪」を見ていただきました。
ちょっと危うくもありましたが、何とか合格。
謡うにしろ打つにしろ、もっとしっかりカンペキにしていかないとな~。

ちなみに写真は
蝉丸神社(っていう名前だったと思います、たぶん…)。
そうあの「蝉丸」の…、何を祭ってあるんだったっけ???
土日、師匠社中の錬成会で大津に行き、その帰りに寄りました。
鳥居の前に踏み切りのある珍しい神社だったので思わず撮ちゃいました。
- 2005/07/05(火) 22:31:04|
- 稽古|
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