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駆け出し能楽師の奮闘記
敷居が高いと思われがちな能楽の世界を、能とは関係のない家から飛び込んだ私・中村昌弘の奮闘を通じて少しでも身近に感じていただけたらと思います。

「じゃあな」

昨日は通夜、今日は葬儀告別式でした。

対面した祖父はあまりにも穏やかな顔で、本当に眠っているようにしか見えませんでした。
棺に入った姿を見ても悲しいとかそういう感情が起こってこないほど安らかな様子でした。

棺にいろいろなものが収められていきます。
叔母曰く祖父が好きだった警察時代の帽子制服が入ると、なぜか「ああ、もうこの世の人ではないんだな」という感覚を覚えました。

あくる日中央道に乗って斎場へ向かっているとすごくキレイな富士山が見えました。
前日の季節外れの大嵐から一転、この日は澄み切った空のぽかぽか陽気でした。

車中、母が「アンタ、こういうときに何か謡うのないの?」と。
追善のときに謡われるのはつい先日も謡った「融」、他は「海人」「江口」「卒都婆小町」といった曲が挙げられます。
「卒都婆小町」はあまり謡ったことがなく、「江口」はどこから謡ったらいいのかはっきり覚えていなかったので「海人」か「融」かになったのですがあとは自分の好みで「融」にしました。

葬儀が始まりお経が読み上げられてお焼香が一段落したときに、弔歌という形で謡わせてもらうことになりました。

正直、声を出すのは少し怖かったです。
僅かな心の揺れでも声にははっきり表れてしまいますから。

遺影に向かって「月の都に入り給うよそおい…」と謡っていると不意に昔の情景がよみがえってきました。
祖父の家から帰るとき50メートルほど先の角を曲がるまで、祖父母はいつもずっと手を振っていてくれていたものでした。
祖父が天に昇りながら「じゃあな」と時折こちらを振り返り手を振っているような感じがしてすごくこみ上げてくるものがありました。
けれどここで謡をとめるわけにはいきません。
僕はこれでもプロの端くれです。
ゆっくり間を取りながら「名残惜しの面影」と謡いきりました。
大人になってから祖父に聞いてもらったのはこれが最初で最後となりました。

そして棺を花で満たし出棺となりました。
このときがやはり一番辛いものでした。
娘である母や叔母たち、従姉たちはさすがにこらえきれないようでした。
ただでさえ涙腺が緩くなっている僕もあふれてきそうになるものがありましたが、祖父の子や孫のなかで僕は唯一の男。
ここで涙を流してしまっては祖父に叱られてしまうような気がしたので、とにかく必死でこらえていました。

火葬場での待ち時間のとき叔母が僕に話をしてくれました。
僕がまだ幼い頃、祖父が電車を見せに連れていこうとしたそうです。
でもその日はあいにく雨。
そこでおぶい紐で僕をおんぶし、風邪をひかないように上から半纏をかけてまで連れていってくれて。
祖母はなにもそこまでしなくてもと止めたそうですが、男の子は電車が好きだから、とそんな無理をしてまで行ってくれたのだそうです。



僕が死というものを最初に認識したのは幼稚園生の頃、祖父母の家から帰るときでした。
いつものように手を振ってくれる祖父母を車の後ろのガラス越しに見ながら泣いていました。
その晩布団に入るとまたそのときの感覚が思い出されてずーっと声を殺して泣いていました。
おじいちゃんおばあちゃんはもう歳をとってるから先に死んじゃうんだ、もうこれで会えないかもしれないんだ、という恐怖にとらわれてしまったのです。
翌日ぐっしょり濡れてしまった枕をみて母が不審に思っていたのをよく覚えています。

そのときから20年以上の歳月が過ぎ、祖父母とも天に昇りました。
28という年齢はまだまだ自分の死を認識する年齢ではありません。
でも20年過ぎたということは僕もそれだけ確実に死への階段を上っているとも言えます。

今の日本人の男性平均寿命は72歳くらいだったと思います。
そうすると僕に残された時間は44年。
僕に課せられた使命を果たすのに充分な時間かというとどうか。
でも時間は有限だからこそいいんですよね。

役目を終えて僕も向こうへ行ったとき、祖父母によくがんばったねと言ってもらえるように。
そうなるよう信じた道を進んで行きたいと思います。

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  1. 2006/12/27(水) 23:22:53|
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