
今日は出稽古のあと
ヤマハ管楽器新人演奏会に伺ってきました。
昨日偶然小中学校での同級生の妹さんに会い、彼女の弟さんがこの会に出るそうでよかったらどうぞということでした。
でも別にお姉さんである同級生とはそう親しいということはなく、その妹さんである彼女もまぁ顔は知っているという程度。
ただ大学時代バイトしていた塾の塾長の教え子で、彼女が遊びに来ていたとき2度ほどあって一言二言言葉を交わしたことはありました。
でもって今回演奏会に出る彼女らの弟さんとは全く面識ナシ。
でも意外なことに僕の妹とは知り合い。
同じ中学のブラスバンド部の先輩後輩で、同じトランペット担当だったので一番会話する機会は多かったはずです。
…とまあ長々書いたわりには関係のよくわからない間柄なのですが、せっかくいただいたので拝見しに伺いました。
こういう音楽を聴きに行くのは久しぶり。
高校のとき友達と行ったドヴォルザーク以来。
さてさて今日は金管部門ということで、トランペットのほかチューバ、ホルン、トロンボーン、ユーフォニアム(この楽器の名前、今日初めて知りました)が一人ずつピアノとセッション(っていう言葉でいいのかな?)をしていくという趣向でした。
お目当ての彼は第2部で登場。
あのですね、
ひいき眼なしで、
たぶん
群を抜いてよかったです!ブラボー!ではないけど拍手に混じって何か叫んでた人がいたくらい。
トランペットが彼一人だったので、余計に高音が冴えて聴こえたということもありましょうが、会場の雰囲気が一気に華やいだ感じ。
なんというのか空気が軽くなったというか。
それでもお姉さん(切符をくれた同級生の妹さん…あぁややこし)曰く、まだまだなのだそうですが(うちもそうだけど家族は辛口です)。
どうしてもどこか能のこと考えながら観ちゃってました。
作法はどうなのかとか、間の取り方はどうなのかとか、はたまた育成システムはどうなっているのかとか。
ひとつ気になったことが(以下ちとエラそうですが…)。
ブレスの音がやや耳障りになったのが何回かあったこと。
能だと音のない瞬間というのがとても大事。
もちろんよい音や声を出すのはとっても大事なのだけど、その間でがさがさ音を出してしまうと元も子もなくなってしまいます。
西洋楽器奏者の場合、鼻から空気を吸ってその間に口に溜めておいた息を吹き出すことにより途切れることなく音を出し続ける循環呼吸法というのがあるのだとか。
ただそれはフルートとかの話でこういうパワーが要りそうな楽器だと理論的に無理なのかもしれませんけど。
ちなみに能管でも可能だそうで、ただ1人使い手がいるとのこと(でも試しに吹いたノンブレス楽を聞いた方は、あまりに耳慣れず「………」だったとか…)。
と、いろいろ感じながら楽しく聴かせていただきました。
ちなみに彼はその実力を認められ間もなく海外に留学するのだとか。
すごいなー、僕も頑張んないとっ。
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- 2006/05/13(土) 23:55:26|
- 日常|
-
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-
コメント:4
西洋音楽では、ノイズを嫌う傾向があって、音というのは、常に「完全な音(100%音に変換される)」でなくてはいけなく、音階も正確な真芯のところを突かないと駄目。
なのだと思っていました。
ですから、ブレス音がうるさく聞こえてきてしまう、というのはやっぱりいけないのではないでしょうか?
ですが、能の音楽などはノイズを楽しむような傾向があって、基本的には「キレイな完全な音にならない」「音(音楽)以外の音があること」には寛大なのだと思っておりました。
お能で「無音が大事」というのは初めてお聞きしました。
どういった状態のことなのでしょうか?
差し支えなければ教えて下さい。
- 2006/05/18(木) 11:17:24 |
- URL |
- ちゃくら #sFkuDBeA
- [ 編集]
だいぶ前、その当時の囃子方の名手が集まった演奏を録音したそうです。
しかし聴いてみると「間がちゃんと録れていない」と言った方いたとか。
音がないということは間の十分条件ではないようです。
まだ僕にはわからない部分がありますが…。
- 2006/05/18(木) 23:27:43 |
- URL |
- 五星 #-
- [ 編集]
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- 2006/05/19(金) 22:28:07 |
- |
- #
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仰るとおりで能の音程・音階というのは非常に曖昧で、ヨワ吟の上は必ずこの音なんていう定義がありません。
また音階の移動もドレミではまず表せない、というか表わしきれないものだと思います。
逆にもし無理矢理当てはめてしまったらそれはきっと無味乾燥なものになってしまうと思います。
このように聞こえる音には非常に寛容なのですが、聞こえない音、ちょっと意味が広くなってしまいますが、換言すれば間(ま)というものが能では非常に重要になってきます。
最たる例が「道成寺」の乱拍子。
そのほとんどの時間が音が全くない状態です。
この無音状態と音の聞こえる状態が繰り返されることにより、急ノ舞という奔流をつくりあげるのだと思います。
能で重い習いとされる曲は別に技術的に難しくなるということはあまりなく、いかに自然に間をとれるかということが要求されてきます。
たとえば「井筒」ではクライマックスの井戸を覗くシーンで無音状態がでてきます。
ただ静止しているのではなくて、観ている方にいろんな考えを巡らせられる自然な時間を提供しなければなりません。
能の中で最も重く扱われる老女物という部類の曲では間を取る能力が強く要求され、こうした感覚が磨かれていないととても勤められません。
そういった意味では「道成寺」というのはその一端を見せてやるよ的な意味で登竜門とされているのかもしれません。
もっとも音楽は音があることが前提とだとすると、今まで書いたことは全く意味をなさないのですが、僕自身謡を謡っていると間の重要性が痛いほど思いしらされます。
むしろ充実した間をつくるためにいかに謡うかというような感じすら覚えます。
(なんとなく中世の死生観にも似ていたりするような気もしてきます)
と、自分のなかでまだ練りきれていない部分があって上手く表現しきれないのですが、こんな風に考えています。
- 2006/05/23(火) 21:14:29 |
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- 五星 #-
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