そう、会場は喜多能楽堂(正しくは喜多六平太記念能楽堂というらしい)。
初めて行くのでわくわくしていました。
小雨の中、目黒の駅からテクテク。
地図で“ドレメ学院”という目印が書いてあって、なんの学校だろうと思っていたら“ドレスメーカー学院”の略なんですねぇ。
結構規模が大きいみたいなので、ひょっとしたら有名な学校なのかもしれません。
5,6分歩いて到着。
楽屋は綺麗で縦長な造り。
切戸口の隣に装束の間があるのは初めてだったのでちょっと不思議な感じ。
幕の隣に小部屋があって、大きな窓から舞台が見られるようになっているのも斬新な印象でした。
ただ、音がだいぶさえぎられてしまうので結局他の能楽堂と同じように幕の隙間から見ていました。
そして舞台に大きな特徴が。
以前から写真で拝見したことはあったのですが、笛柱が1本独立して立っています。
地謡はどうやって出て行ったらいいのかなぁ?と悩んでしまいましたが、先輩に聞いてみたところ気にしないで壁沿いに出て行っていいとのことでした(舞囃子のときは柱の外をまわって出ました)。
さて公演について。
演目は舞囃子「高砂」と能「卒都婆小町」。
僕は高砂の地謡を謡い、卒都婆(略称)は楽屋働き。
高砂は来月の研究会で全く同じ寸法の地頭が控えているので、少し気にしながら謡いました。
そして卒都婆についてはちょっと触れておかねばなりません。
この曲は能の中で最も難しいとされる老女物のひとつで、金春流ではとても重い扱いになっています。
金春流の老女物は現宗家金春信高先生が復曲活動をされるまで、金春宗家の一子相伝の秘曲である「関寺小町」以外この曲しかありませんでした。
そのため平常勤められる曲としては最も重い曲となり、宗家一門で50歳以上、弟子家では還暦を過ぎないと勤めることができないというのが暗黙の了解となったようです。
現在では「伯母捨」「檜垣」という曲も復曲されましたが、今なお重い扱いは変わらず、暗黙の了解も守られています。
他流では老女物というより狂女物に近い扱いになっていて、40歳そこそこでも勤められるそうですが、それはきっと前に挙げた以外にも「鸚鵡小町」など老女物が現行曲として存在したためでしょう。
そんな卒都婆。
あらすじ。
卒塔婆に腰掛けているおばあさんがいたのでお坊さんが注意したら、逆に仏教問答で説き伏せられて、聞けばそのおばあさんは小野小町のなれの果てでした。そんな小町おばあちゃんと語らっているとふと様子が変わり深草少将の霊がとり憑き半狂乱になりますが、やがて我に返りました。
というストーリー(かなりおおざっぱ)。
さあ、そんな舞台はというとーっ。
…働きでちょこちょこ動き回っていたので、あまりゆっくり見られませんでした。
残念…。
そう舞台中にとんでもないことが!
シテが舞台に入って程なく、
グラグラグラ!!!!
後で聞いたところ震度4だったそうです。
それにしても間の悪い地震だこと。
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